【涅槃城】納骨堂に「扁額」を取り付けました
令和3年5月、教念寺納骨堂に『涅槃城』(ねはんじょう)という扁額(へんがく)が掲げられました。
【扁額】とは、建物内外や門・鳥居等に掲出される額のことです。
納骨堂の正面にこの扁額を掲げることについては、ご門徒のSさんが当納骨堂にご加入された当初からご提案くださっておりました。
それから数年…扁額に何という言葉を刻むのか、誰に書いていただくのか、どんな木にするのか…等々、住職の行動力不足もあり、かなりの年月をかけ、やっと実現することになりました。
言葉は、親鸞聖人のお師匠様であり、浄土宗の宗祖である法然上人が『選択本願念仏集』というお書物の中にあらわされている「涅槃之城」というお言葉から「涅槃城」といただきました。書は、元浄土真宗本願寺派総長、兵庫県西宮市西福寺のご住職 豊原大成 師にお願いいたしました。扁額の作成は、欅(けやき)の銘木選びから彫刻、箔押し塗装まで全てSさんがプロデュースし、ご寄進くださいました。
この度は、その扁額を取り付ける工事の様子を短い動画にまとめましたので、御覧くださいませ。
Sさんありがとうございました!
【涅槃之城】とは?
法然上人が『選択本願念仏集』(せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)というお書物の中に
「當知、生死之家以疑爲所止、涅槃之城以信爲能入」(まさに知るべし、生死の家には疑をもって所止となし、涅槃の城には信をもって能入となす)
と示された文の中にあるお言葉で、「涅槃之城」で「ねはんのみやこ」と読みます。
現代語訳を見ると
「生まれ変わり死に変わりし続ける迷いの家にとどまるのは本願を疑うからであり、さとりのみやこに入るのは本願を信ずるが故であると知るべきである。」
とあります。現代語訳でも難しい(泣)
この文を親鸞聖人は『尊号真像銘文』(そんごうしんぞうめいもん)というお書物の中で下記のように解釈されています。
「当知生死之家」というは、まさにしるべし生死のいえというなり。「以疑為所止」というは、大願の不思議力をうたがうこころをもって、六道・四生・二十五有・十二類生にとどまるなり、いまにまようとしるべしとなり。
「涅槃之城」というは、安養浄刹をもうすなり、これを涅槃のみやことはもうすなり。「以信為能入」というは、真実信心をえたる人のみ本願の実報土によくいるとしるべしとなり。
と述べられています。現代語訳を見ると
また「当知生死之家」ということについて、「当知」とはよく知るがよいということであり、「生死之家」とは生れ変り死に変りし続ける迷いの世界のことをいうのである。「以疑為所止」というのは、大いなる本願の思いはかることのできないはたらきを疑う心によって、六道・四生・二十五有・十二類生という迷いの世界にとどまるというのであり、今に至るまでの長い間このような世界に迷い続けてきたと知るがよいというのである。「涅槃之城」というのは、安養浄土のことをいうのであり、これは涅槃の都ということである。「以信為能入」というのは、真実信心を得た人は阿弥陀仏の本願に誓われた真実の浄土に往生することができると知るがよいというお言葉である。信心はさとりを開く因であり、この上ない涅槃に至る因であると知るがよいというのである。
とあります。また、『正信念仏偈』(お正信偈)にも
還来生死輪転家
決以疑情為所止
速入寂静無為楽
必以信心為能入生死輪転の家にかえることは、決するに疑情をもって所止とす。
すみやかに寂静無為のみやこに入ることは、必ず信心をもって能入とすといへり。
とあります。む、難しい…ですよね(汗)
要するに、ご本願(我にまかせよ必ず救う、あなたを救うことができなければ私は仏になりませんという阿弥陀仏の誓願)を信じるか疑うかによって、お浄土に往生し仏様となるのか、あるいは、このまま迷いの世界で流転を繰り返すのかが分岐するのであるということを明らかにされてあるのですが……ちょっと…このままでは誤解が生まれそうなので、灘本愛慈和上のお言葉を引用すると
信ずれば悟りの世界に入り、疑えば迷界にとどまるというのは、本願を疑うことがわたくしどもの迷いの因であるということではありません。わたくしどもの迷いの因は、わたくし自身の煩悩悪業であります。その迷いの世界から救われる願力の法が成就して与えられているにもかかわらず、これを信受しないから、悟りの世界に入ることができず、依然として迷界にとどまるのである、といわれるのです。
たとえば、自分の不摂生で病気になっている者が、すでにその病気を治す薬ができていて与えられているにもかかわらず、これをのまないから、病気が治らないというのと同様であります。薬をのまないから病気が治らないというのは、薬をのまないことが病気の原因だということではありません。灘本愛慈和上「やさしい安心論題の話」信疑決判より
なるほど。いかがでしょうか?「涅槃之城」というお言葉について少しだけ解説?を書きました。
今の今まで、生まれ変り死に変り、迷いの世界を流転してきたこの私が、この度ばかりは、仏法に遇うことができ、それを聞くことができました。どんな私であっても、我にまかせよ必ず救うと、いつでもどこでもご一緒くださる仏様がいらっしゃるのだということをお聞かせにあずかり、あとはそれをそうかそうかとふんふんと聞いておけば、それで良いのだということなのでしょうか。
うーん…書けば書くほどドツボにはまりそうなので、ぼちぼちこの辺で失礼しようと思います。
当山納骨堂についての詳細は下記リンクからご確認くださいませ。